名とかたちの世界を越えて
わたしたちは、名を与えることで、
世界を理解しようとします。
木々に名前を、風に意味を、想いに輪郭を。
けれども、その瞬間に
あらゆるものは「私」と「それ」に分かれ、
世界は距離をもちはじめます。
マインドは、名とかたちの織りなす網の中で
過去を悔やみ、未来を案じ、
いま・ここを通り過ぎていきます。
そのさまは、まるで幻(マーヤ)のうちを歩むよう。
けれど、その幻を抱きしめながら、
わたしたちはなお、
在ることの静けさを思い出そうとするのです。
二つの空間(SPACE)
空間とは、ただの広がりではありません。
ひとつは、マインドがつくる枠組みのなかの空間。
ここには座標があり、時間が流れ、名前が在ります。
もうひとつは、言葉もかたちも超えた空間。
静寂のなかにあって、
音が生まれ、
いのちが息づき、
存在そのものがただ在る場所。
それは、アーカーシャと呼ばれます。
五大元素のなかで最も微細で、
呼気と吸気の狭間に、そっとあらわれる静寂の余白。
HRIDAYA SPACE という名に込めたのは、
この「静寂が響く空(そら)」のことです。
静寂が響く場として
ここは、
セラピーでもなく、癒しの手法でもなく、
静寂へ還るための「場」です。
変容や癒しを目的とするのではなく、
「本質への回帰」「本来的な自己との再会」が
そっと促される空間。
心理療法やトラウマケアの「プロセス」を
追うのではなく、
「静けさ」「沈黙」「ただ在ること」からもたらされる
気づきと安らぎが、自然に満ちてゆきます。
わたしたちは、問いや答えの前に、
ただ「在る」ことに戻ることができます。
それは、心をしずめることではありません。
ハート(Hridaya)から空間が開かれること。
分離ではなく、融合へとほどけていくこと。
呼吸し、聴き、待ち、沈み、照らされる――
そんな繊細な営みのための場なのです。
虚空(アーカーシャ)という起源
虚空(アーカーシャ)は、
始まりもなく、終わりもなく、
境界を持たず、内と外の区別もありません。
わたしたちが「空間」と呼ぶとき、
多くの場合、それは対象との距離や広がりのことを
意味しています。
けれどもアーカーシャは、
そうしたマインドがつくり出す構造とは異なります。
それは、「在る」ということの、
いまだ何ものにも触れられていない、
根源的な余白(スペース)。
すべての音がそこから生まれ、
すべての動きがそこに還っていきます。
アーカーシャは、静寂そのもの。
呼吸がふと鎮まり、思考がほどけるとき、
その静寂の中に、気づきがそっと浮かび上がります。
そこに時間はありません。
そこに「わたし」と「それ」の分離もありません。
理由もなく惹かれるのは、
その虚空が、わたしの源であり、
名もかたちも脱ぎ捨てたあとに、
なお響き合う場所だから。
HRIDAYA SPACE は、
その響きとともにそっと在ります。
HRIDAYA SPACE がひらくもの
この場が目指すのは、
何かを教えることでも、
誰かを癒すことでもありません。
還ること。
わたしという輪郭を越えて、
ハートの静けさへと還る。
言葉の届かぬところで、静かに満ちてゆく。
