Hridaya Drumming とは

― 音が静けさを開くとき ―

静寂には、はじまりも、おわりもない。
それは、音が生まれる前から在り、
音の背後にひそやかに息づき、
すべてが終わったあとにも、
変わらずそこにある。

音は、その静けさのなかを旅するだけ。

太鼓の響きは、大地の鼓動。
脈打つ手のひらは、いのちのリズムを想い出す。

誰もが幼いころに、母の胎内で聴いていた、あの響き。
言葉の生まれる前、境界のなかった時代の記憶。
それが、いま、音として甦る。

静けさが、音を呼び、音が、静けさへ還る

演奏は、静寂のなかに芽を出し、
リズムが育ち、やがて溶けて、
再び静寂へと還っていく。

打つたびに響くのは、音ではなく、
音のあいだにひろがる “空(くう)”。

技巧を尽くして響きを飾るよりも、
ただ、同じリズムを繰り返しながら、
その奥にひそむ静寂に、耳を澄ませていく。

すると、マインドは音に溶け、自然と鎮まり、
意識は、波打つように静けさへとひらかれていく。

共に叩く、ということ

誰かと呼吸を合わせること。
それは、言葉ではなく、
身体の奥で “ひとつになる” ということ。

太鼓を囲み、ただ同じパルスを刻む。
すると、不意に、時間が緩み、
それぞれの鼓動が、
いつしか “ひとつのうねり” となって流れ始める。

言葉が境界を生むならば、
リズムは、私たちを境界のない場所へといざなう。

音の奥にあるもの

音は、脳をゆるめ、
振動は、肉体の記憶を呼び覚ます。

太鼓の波動は、マインドではなく、
もっと古い、もっと深い場所へと届いてゆく。

ただ、叩く。
ただ、聴く。
ただ、在る。

その瞬間、
私たちは「する者」ではなく、
「響きのなかに在る者」となる。

Hridaya ― 響きが還る場所

音が深まっていくと、
どこかで「聴いている自分」が
消えていく瞬間が訪れる。

ただ、響きが響きを呼び、
リズムが内側へと沈んでいくとき、
心臓の奥にある「もうひとつのハート」に、
そっと触れてゆく。

それが、Hridaya ― 霊的中心。
胸の奥、静寂の泉のような場所。

そこには、誰のものでもない鼓動があり、
誰とも争わない静けさが、静かに波打っている。

太鼓のリズムは、その静寂を包む螺旋。
私たちは、音を通して、Hridaya へと帰還する旅人。

そして知るのです。
打ち鳴らす音が、
いつしか「中心に還る道しるべ」となっていたことを。

セロトニンの舞う空間

手を動かし、リズムに身体をゆだねると、
脳は静かに穏やかさを取り戻しはじめる。

言葉を用いずとも、
規則的な運動と体感への意識によって、
セロトニンはそっと羽ばたき、
内なる平穏を全身に届けてくれる。

そうして、
音のあいだの “空” に満たされるとき、
私たちは、深い静けさのなかで微笑んでいる。

Hridaya Drumming は、
祈りであり、響きの瞑想である

それは、宗教的でも、シャーマニックでもない。
けれど、虚空に響き、心が澄んでゆく。

技巧や正解を求めず、
音を通して、静寂とつながり、
それぞれの中心へと還っていく。

太鼓が教えてくれるのは、
音を出すことではなく、
“静けさを聴く” という、忘れられた技法。

技法的背景

太鼓は、叩けば音が鳴ります。
音楽的な知識も、演奏経験も必要ありません。
誰のなかにも、
いのちのリズムが刻まれているからです。

ここで大切にしているのは、
技術の上達や正しさではなく、
「判断を手放す」という行為そのもの。

叩き方の基本は丁寧にお伝えします。
けれど、それは身体を痛めないための土台であって、
上達や評価のためのものではありません。

むしろ、必要なのは、
「うまく叩こう」とする意図をほどいて、
ただリズムのうねりに、そっと耳を澄ませること。

目を閉じ、音の波に身を委ねると、
やがて、自分という個の輪郭がやわらぎ、
共鳴する「ひとつの場」に溶け込んでいく。

静けさのなかに、音が生まれ、
音のあいだから、静けさが立ちあがってくる。
その循環に耳を傾けながら、
「叩く」というよりも、
「響きのなかに在る」ように――。

時に、内なる衝動が湧き上がってくることがあります。
思わず力強く叩きたくなったり、
誰よりも静かに、音を聴きたくなったり。

そのすべてが、うねりの一部です。
「尖ること」と「鎮まること」の即興的な流れに
たゆたいながら、
まるで、一艘の舟に皆が乗っているような
感覚が生まれます。

私はこれまで、千回を超える
Hridaya Drumming の場をリードしてきました。
そこには、演奏経験のない方も多く、
なかには80代、90代の方々もいらっしゃいました。
けれど皆、やがて静けさを聴き、
その音の奥に、深い安らぎや澄みわたる感覚を
見出してゆかれたのです。

響きの背景にあるもの

太鼓から生まれる音には、
はっきりと聴こえる主音の背後に、
空間にやさしく溶け込むような
微細な倍音が含まれています。

その響きは、私たちの知覚の枠をこえて、
空間と身体のあいだをふわりと満たし、
言葉にならない感覚として、
深い安心感や一体感をもたらします。

科学的には、
太鼓の倍音が心や身体にどのような影響を与えるのか、
まだ十分に研究されているとは言えません。
けれど、多くの人が語ります。

「音に包まれ、気づけば静けさのなかにいた」
「叩いていたはずが、聴いていた」
「音の奥に、自分が溶けていったようだった」

これは、文章や理屈では伝えきれない領域です。
体験してみなければ、
ほんとうの意味では分からないことかもしれません。

※ドラミングの効用について興味のある方は、
こちらをご参照ください。

科学的背景

Hridaya Drummingの効果

Hridaya Drummingでは、セロトニンの活性化やストレスの軽減といった心身への穏やかな変化が、多くの方の体験から語られてきました。その一端を、客観的な指標からも確認するために、医療機関との共同による簡易研究が行われました。

  • プログラム実施前後に採血・採尿によるセロトニン値の測定を行ったところ、参加者全員においてセロトニンの数値が増加傾向を示しました(※詳細数値は非公開)。

  • また、POMS(気分プロフィール検査)を用いた主観的評価では、以下のグラフに示す通り、「緊張・不安」「抑鬱・落ち込み」「怒り・敵意」「疲労・無気力」「混乱・当惑」といったネガティブ感情が有意に低下し、反対に「活力・積極性」は増加傾向を示しました。

これらの変化は、心の深層に波紋のように広がる太鼓のリズムが、私たちの神経系や感情の層にやさしく働きかけていることを示唆しています。数値では測りきれない、けれど確かに感じられる変容。それを裏づけるひとつの手がかりとして、このような科学的視点も、Hridaya Drummingの静けさの中にそっと息づいています。

※本内容は医療診断や治療を目的としたものではありません。

メディア掲載より

これまでに、Hridaya Drumming の実践は、
医療や介護、地域保健の現場においても
紹介されてきました。

『日経ヘルス プレミエ(2009年3月号)』では、
読者モデルの体験を通して、
「心のゴチャゴチャが消え、爽快さが長く続いた」
という言葉とともに、
太鼓による心身のリセット感が特集されました。

『セラピスト』(2020年10月号)では、
特集「音の力」内において、
Hridaya Drumming が紹介され、
太鼓のリズムが
身体に内在する生命力を呼び覚ます媒体となること、
響き合いのなかで個を越えた一体感が生まれること
などが取り上げられました。
自然に囲まれた空間での実践風景とともに、
「身体を響き合うものとして感じる」という在り方
光が当てられています。

『毎日新聞』地域版(2009年3月3日付)では、
認知症予防やストレス緩和を目的とした
自治体の取組みの中で、
Hridaya Drumming の前身とも言える
手法が紹介され、
参加者が「心に余裕が生まれた」
「自分の音が生きているように感じた」と
語る声が紹介されています。

※ヘルスリズムスについては、
こちらをご参照ください。

これらの場では、音楽経験のない方、高齢の方、
さまざまな背景を持つ人々が、
ただリズムに身を委ね、
音とともに静けさへと還る体験をされています。

技法や知識を越えて、
響きのなかにただ在ることの深さが、
人の内側にやさしくしみ込んでいく——

そのような実例が、
メディアというかたちでも紹介されてきました。